堤製作所の創業者旧姓遠藤章は、刀工十代兼定、初代兼次、二代兼次、初代兼光、二代兼光から三代兼光としての歴史を背負い昭和二十九年に堤家の婿養子となりました。
当時、下駄屋を営んでいた堤家の屋敷周りは、加藤嘉明公の会津移封に際し随従した三好藤四郎長國が拝領した刀鍛冶の屋敷跡だと伝えられています。
寛永四年(1627 年)、長國が鍛冶場を整え、以後、初代長政、初代長道と続き明治9年(1876年)の廃刀令が発っせられるまで、
250 年の長きに渡り十二代長道まで続いたのです。
幕末に名を馳せた十二代長道は、廃刀令後に刃物鍛冶となり多くの鍛冶を輩出しつつ明治二十二年に終焉を迎えました。
その後、堤家はこの地に下駄屋を開業し成功しますが、章が婿養子となった昭和二十九年頃には桐下駄産業は下火となり、章の才覚に行く末を託したのです。
時代的には鍛冶屋の仕事も減少の道をたどり始めますが、一切の妥協を許さない姿勢で「鍬は土を切る刃物である」という信念のもと、
鍬を抱えたまま寝てしまうほどに研究を続けた章の閃めきから生まれる画期的な商品の開発により、ステンレス姫鍬を主商品に全国へ販路を広げ現在まで続きます。