語り伝えによれば、天正十七年。
会津城主の芦名義広公は磨上原の戦に敗れ常陸に奔(はし)ったが、継姫(つぐひめ)は逃げおくれ、家老の富田右近と共に身を隠した。
農家の娘を装って継姫も農耕の手伝い等をしなければならない境遇であった。
健気にも痛々しい姫の姿を見るに忍びず、右近は元芦名家の刀匠兼定を密かに訪ね、姫のために特別に軽い鍬を作ってくれるよう依頼したのであった。
兼定は魂を込めて、刀法の理を応用した素晴らしい鍬を作り上げた。
翌、天正十八年九月、蒲生氏郷公が会津に入城し、継姫をめぐるこの美しい事の始終を聞き、大いに賞した。
その労を慰め、氏郷公は墨痕淋漓(ぼっこんり ん り)たる筆跡で鍬を納めた箱上に、次のように添書をしたのであった。農の宝「姫鍬」・・・と。その名は今に伝承。
堤章遺筆より